6月26日に初めて行った一般質問の内容をお知らせします。
(今後の目指すべき京都の姿について)
 まずはじめに、今後の目指すべき京都の姿につきまして、知事にお尋ねいたします。
 昨年就任された安倍首相は、その所信表明演説におきまして、「長い停滞のトンネルを抜け出し、デフレからの脱却が視野に入るなど、改革の成果が現れ、未来への明るい展望が開けてきました」と述べています。しかし、現実には、景気の回復は部分的であり、地域では依然として厳しい状態が続いていると言わざるを得ません。わが国全体としては、少子高齢化が進展し、人口減少社会が到来する中、格差の拡大、ルールを無視した企業の不祥事、そして信じられないような痛ましいニュースが毎日マスコミにおどっている状況です。世界に目を向けると、温暖化の進行、紛争やテロが頻繁に発生するなど、私たちの暮らす身近な地域から世界各地に至るまでが閉塞感に満ちた社会となっているのではないでしょうか。
 誰もが、私たちの暮らす社会を、そしてこの京都をもっと良くしたい、もっといい形にして次の世代にバトンタッチしたいと考えているにもかかわらず、このような先行きの見えない社会では、何をどうしたら良いのかがわからず、暗中模索をしながら、毎日を懸命に生きている、というのが現実ではないでしょうか。
 新しい世紀の幕開けとともに、「むすびあい、ともにひらく新世紀・京都」を基本理念に掲げた新京都府総合計画がスタートし、また、2005年3月には、『「人・間中心」の京都づくり 5つのビジョン』が策定されました。本ビジョンでは、「人・間中心」を基本の視点に据え、次世代を担う子どもの人間性あふれる成長を願う京都、などを目指していますが、これはあくまで2001年から2010年までの新京都府総合計画実現のための中期ビジョンであります。
では、その先の、将来の目指すべき京都の姿をどのように考えておられるのでしょうか?知事のお考えを伺いたいと思います。
新しい世紀に生きる私たち京都府民に、この厳しい時代を乗り越えるため、今後のあるべき京都の方向性を明確に指し示すことこそが、責任あるトップリーダーの役割であると考えます。現状をしっかりと見据え、問題点を明らかにし、府民誰もが理解できるわかりやすい目標、そして、府民に夢と希望を抱かせるような、明確なビジョンをぜひご提示いただきたいと思います
私たちの暮らす京都は、世界に誇りうる美しい自然や伝統文化を有し、長い歴史の中で常にわが国の中心地でありました。
京都といえば世界中の誰もが愛する地域と言っても過言ではないと思っています。そんな京都の、これからの役割といたしましては、この社会にはびこる閉塞感を打破するため、国の一歩も二歩も先を行くことでこの国をリードし、そして模範を示してまいることではないでしょうか。知事はわが国における今後の京都の役割について、どのようにお考えでしょうか?
中期ビジョン策定からすでに2年以上経過し、その間、内外情勢の激しい変化もありました。時代を先取りし、5年後、10年後の京都を常に考えておくべきと考えますがいかがでしょうか。お伺いいたします。
次に(道徳教育について)伺います。
 その5つのビジョンでは、「忘れかけていた人の「心」の大切さをもう一度見直し、人と人とがしっかりと結ばれた心豊かな社会を構築することが求められています。」と打ち出されています。また、京都が模範を示してこの国をリードしていくという考えに照らしても、道徳教育の充実が今後益々求められるのではないでしょうか。京都府の道徳教育の現状と今後の方向性についてお伺いしたいと思います。
先の教育再生会議においても、「徳育」を従来の教科とは異なる新たな教科と位置づけ、充実させる、と提言するなど、国においても道徳教育を見直す方向にはあります。しかし未だ、どのような形で、どの分野でどのように教えるかというのが不明確であるように感じております。京都府教育委員会が作成した、「京の子ども 明日へのとびら」中学校編の中で、梅原猛先生は、「今の日本では学校でも家庭でも、道徳というものがほとんど教えられていません。世界の中で日本ほど道徳が教えられていない国はないと思います。」と述べておられます。
しかしながら、道徳教育は、教育のいわば中核であると考えます。したがって本来的には、それはただ単に学校教育のみで果たすべき課題ではなく、家庭や社会全体で担うべき役割が極めて大きいと思います。理想的に言えば、学校だけではなく、家庭や地域社会の場で総合的に行うのが良いのではないでしょうか。しかし現実に目を向けますと、核家族化の進行、近所付き合いの希薄化により、一昔前なら、おじいさんやおばあさん、あるいは、近所のこわいおじさん、おばさんが担っていた「道徳教育」の役割があまり期待できなくなっていると感じております。それならば、それはやはり学校が受け皿となり、学校教育の中で責任を持って行わなければならないのではないでしょうか。
文化勲章受章者で数学者の岡潔先生のエッセイにこんな一節があります。「義務教育が何をしなければならないかとなると、これは道義的センスをつけることの一語につきるのではあるまいか。もちろん社会教育、家庭教育が助けてくれるのなら学校教育もやりやすいが、今の世相はとてもそんなものではなく、学校が道義教育をやろうとしても、社会や家庭がじゃまばかりするありさまなので、とてもやりにくいとは思うが、何とかして道義の教育をやってほしいものである。」これは昭和30年代後半に書かれた文章であり、それから50年近くたった現代ではなおさらのことだと思います。
学校教育がしっかりと道徳教育を担うことで、例えば、電車やバスなどで、親が先に人を分け入って座席を確保する光景を目にすることがありますが、そんなとき、「お母さん、だめです。順番を守りましょう」と言える子ども、理想論かもしれませんが、つまり道徳において、親を教育するぐらいの子どもを学校教育において育んでいく意気込みが必要ではないでしょうか。
 先に紹介した、「京の子ども 明日へのとびら」は、京都府内の小中学生に配布されたと伺っております。この冊子の具体的な活用方法はどのようになっているでしょうか?また、例えば小中学生だけではなく、高校生編を府立高校生にも配布するお考えはないでしょうか?道徳教育はなるべく早い時期から始めるべきと考えますが、中学生で終わりではなく、高校生やそれ以降にも必要なものだと思います。高校生への道徳教育の考え方もあわせてお伺いしたいと思います。
(大人の教育について)
 高校生への道徳教育の延長線上には、大人の教育があると思います。一部には、教育というと子どもに対するものであり、大人にはもう良い、大人は自己責任で、自分の判断で勉強すればよい、といった考えはないでしょうか。しかしながら、私たち大人への教育、特に継続した道徳教育、モラル面での啓発活動が今の時代、ますます必要になっていると考えます。
 例えば、給食費の滞納問題が象徴的な事例ではないでしょうか。今年初めの文科省の発表では、2005年度の全国の小中学校の滞納総額が22億円、児童・生徒数で見ると100人に一人が滞納していた計算になるとしています。滞納のあった学校の6割では、「保護者の責任感や規範意識が原因」としており、経済的に払えるのに払わない保護者の存在が浮き彫りとなっております。給食費を払えるのに払わない、そのかわり携帯電話代には月に何万円と払っている親の姿をみて、子どもがまともに育つでしょうか。子どもは大人社会のかがみであり、大人の言動に敏感に反応するものです。
特に、親の責任は誠に大きいと思います。昔から、親の背中を見て子どもは育つと言いますし、子どもに何かあったとき、「親の顔が見たい」とよく言ったものです。常に親のあり方を見て、人間とはいかにあるべきか、いかに生きるべきか、と子どもは考えるのではないでしょうか。さらには、親によって教育に対する力の入れ方に温度差があり、子どもへの教育に直接大きな影響があるようにも感じております。
毅然とした態度で子どもの前に立つためにも、親もそれ以外の大人たちに対しても、常にモラル面での啓発活動が必要ですし、また、勉強したいという意欲があれば、生涯いつでも教育を受けられる仕組みづくりがこれからますます大切になってくると考えます。教育改革や教育再生と言って、多大なお金や時間、多くの労力を使って子どもの教育に力を入れても、テレビや新聞におどる大人たちやあるいは身近な大人たちが悪いと、せっかくのエネルギーがむだになってしまうのではないでしょうか。
 大人に対する教育の考え方について、伺います。
京都府教育委員会では「ドキドキ子育て」といった家庭教育手帳を保護者に配布し、家庭での教育やしつけの参考にするよう促していますが、これらの活用状況はどのようになっているでしょうか?また、学習習慣や生活習慣が子どもたちにしっかりと身に付くよう、小学校就学前の子どもを持つ親を対象に「応援塾」を今年度から開設されると聞いておりますが、この状況はどのようになっているでしょうか。さらには、これら以外に親の教育、あるいは大人の教育に取り組んでいることはあるのでしょうか。
最後に(選挙の開票事務作業の効率化について)お伺いいたします。
 今回の選挙では、選管の発表ミスがありました。その後の対応として、関係者の方々の処分があり、また、今後の再発防止対策を講じていただいておりますことは、真摯に受け止めたいと考えております。
ところで、今回のミスは単なる個人的なもの、あるいは、部分的なものだったのでしょうか。私は、もっと構造的なもの、あるいは、体質的なものではなかったかと感じております。
 現在、全国的には、「0.1秒の改革」として、多くの自治体が少しでも開票作業時間を短縮することで、公職選挙法が求めるところの「選挙の結果を選挙人に対し速やかに知らせる」ことを追求する流れにあります。この迅速性を高める工夫が、結果的に正確性や公平性をより高められるという研究結果も発表されていますし、さらに言えば、選挙の信頼性、住民の意思を政治に反映するという民主主義の根幹にも大きくかかわってくるものであり、開票事務作業の効率化がますます求められるものと考えます。
 自治体によっては、例えば、開票場での職員の服装を、それまでのスーツ、スリッパから、作業着、運動靴に変え作業しやすくしたり、あるいは、開票立会人に開票場内を自由に巡回させることで信頼性や透明性を高める工夫をする自治体も見られます。その結果、開票時間が短縮されただけではなく、「経費削減につながった」「職員の疲労の軽減につながった」との声も多数存在するとのことです。
 京都においても、例えば、亀岡市では、開票作業にあたる職員を、作業工程に応じて担当事務を兼任させ、票の流れにあわせて職員の流れをつくるような作業を目指したり、従来の人海戦術主体の開票作業から機械化できる部分は積極的に機械を導入し、人員の削減を図るなどの工夫をされました。その結果、今回は前回に比べ、開票時間が短縮され、作業者が減り、人件費が削減された、とのことでございます。
 その一方で、一部報道によりますと、開票時刻と終了時刻の統一基準がないことで、開票時間について、府と市町村の認識に食い違いが見られたり、集計票の確認方法がそれぞれの選管に委ねられ、確認がなされなかったという事例が見られております。
つまり、開票作業の改善に対する意識について、市町村や行政区によって温度差があり、亀岡のように工夫している自治体がある一方で、工夫があまり見られない自治体も存在するのではないでしょうか。ある開票立会人の方に伺いますと、その開票場では開票作業がとっくに終わっているかのように見えるのに、なかなか結果が発表されず、その間何をやっているのかわからなかった、という声も聞かれました。開票結果の発表が恒常的に遅い行政区もあるようです。
今回、ミスが発生した時刻は、日付が変わりそうな深夜でございました。作業をされていた方の疲労は相当なものであったと推察いたします。
 民主主義に対する信頼を取り戻し、二度とミスが起こらないようにするためには、京都全体として開票時刻等の統一的な基準をつくり、事務効率化に努めることが必要であります。さらにその上で、トップダウンによる明確な目標設定、また、目標を組織で共有するためのリーダーシップ、さらには、職員の方々の意識を変えるための強い意志が必要ではないでしょうか。選挙管理委員会のご所見を伺いたいと思います。
 以上で私の質問とさせていただきます。ご清聴誠にありがとうございました。